倉敷・玉島・円通寺。こう書けば、良寛を知る人なら、若き日の良寛さんと、その師、国仙和尚を思い浮かべられるであろう。出雲崎町の名主、橘屋の跡取りとしての山本文孝(良寛の元服名)の人生は、国仙和尚との、運命的な出逢いによって、一変したからだ。
良寛は、家督は、弟にゆずった。そして、国仙に従い出家し、遙かの地、備中の国、玉島・円通寺に出奔した。以後、ざっと十二年、その地での修行に身を投じた。その若き修行僧の良寛像が、今、円通寺の境内に建っている。托鉢姿の立像だ。私は、この春の円通寺訪問で、それを見た。
なぜ、良寛は、僧としての生涯を歩む様になったのか。父・以南に似て、繊細な精神の持ち主であった、文孝。もろもろ、悩んでいたこころの解決は、国仙に従うことによってしか得られない。そう、良寛は決断したのだろうか。そんな事を考え、ふと、若き日の良寛の修行の地を、見たくなったからだった。暑い日だった。坂道を歩いてみて、托鉢僧の良寛さんも、この道を行き来したのだろうか。などと想像を巡らしたものだ。
その円通寺での修業の若き日々。
それは座禅をくみ、また、国仙に問いかけ、教えを乞い、時に、托鉢に玉島の町を歩く日々だった。それらは、みな、宗祖・道元へ繋がる道でもあった。その結果、国仙より印偈を授かり、『大愚・良寛』の名のもとに、一本の杖を与えられた。
やがて 国仙和尚の死と共に、良寛は、円通寺を去った。彼には、師の居ない円通寺はありえなかった。そして、雲水としての身一つで、各地を行脚、孤独な修行の日々を送っていった。独自の世界が形成されて行くのである。漢詩をつくり想いを述べ。短歌を創作し、また、書を書きつづけてゆく良寛の誕生である。まさに、良寛を、良寛たらしめる年月が始まって行った。