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椿
良寛断想 大原啓道  米子市久米町
2023/10/03
広げよう応援の輪

若き日、一度は妻をめとった良寛さん。しかし、それは何故か、離縁の道を辿った。この時の名主の跡継ぎ、橘屋 山本文孝(良寛の元服名)の、青春の心のドラマと出家とは、何か関係があるのではないか。

 

人生は旅に例えられる。確かに、日々、歩んで行く道は旅だ。しかし、私達にとっての旅は、出発し、あちこちを巡り、やがて、帰ってくる場所があっての旅だ。芭蕉の様に、「旅をすみかとす」と言えるまでには相当の自省がいる。良寛さんのこころの旅も、そんな旅だった様に思える。心の旅をしている時こそ、命の輝きがある、とは、なかなか言えない。

 

良寛は孤独な世界に住んでいた。しかし、世の中を見る眼を無くしていた訳ではない。『越後土波』等に見られる様な、世相批判を見てもそれはわかる。当時の、寺の僧のあり方にも、鋭い眼を向けていた。その為、孤立した雲水の道を歩まざるを得なくなった。西行や、芭蕉を友としたゆえんだ。

 

短歌は情の調べだ。良寛さんの短歌には、貞心尼との恋を契機に、一気に情の流れがあふれてくる。人間としての、こころの躍動感が生まれている。また、良寛の書には、勢いのあふれている書もあれば、心をけずりに削った後に、のこる芯だけで出来ている作品もある。そんなことをいっても、印象だけなのだが。

 

良寛さんは、一筋縄では、つかめない。いや、ふた筋、三筋の縄でも、今の私には、無理だろう。相当の読む努力と、必要な智識などがいる。お前に、そんな事ができるか? 無理だなあ、という声が、こころの底から聴こえてくる。親しめば良いのだ、というのが、今の気持ちだ。

 

「只管打坐」。言うまでもなく、曹洞禅・道元の原点だ。ただ、座る。この単純、かつ、深淵な業を道元は求めた。之に習うなら、良寛のこころにせまるには、「只管打讀」しかない。ひたすら、もろもろの作品を讀むしかない。