良寛への一視座
吉本隆明さんの、文章や作品を読むと、私は、必ず、何か眼を開かれる想いがする。つまり、今まで知らなかった、新しい知見を垣間見る。
良寛についてもそうだった。その視点は、良寛(の思想)を、「アジア思想の一系譜」としてとらえる見方だ。
これまで百花繚乱のごとく、「良寛」は語られ、研究されてきた。彼の残した、漢詩、和歌、墨書などについて、人々は、語り、書き、研究してきた。それは、現在でも、依然としてつづいている。それだけ、良寛には、もろもろの魅力があるということだろう。
そういう書物の一冊として、吉本隆明著『良寛』を見てみる。
この書の前半は、新潟の良寛研究会の一つ、「修羅同人」からの、招待講演の形で書かれている。
この本を読んで、私が、特に眼を開かれたのは、「アジア思想の一系譜」として位置づけられた良寛像だった。良寛は、荘子を良く読んでいたという。あの中国の思想家、荘子である。
私も、高校の漢文の時間には、孔子や孟子を四苦八苦して読んだ。また、老荘思想ということで、老子、荘子の名前を知った。習った内容は全て忘れている。
彼らの思想を、一つの「アジア思想」という、くくり方をすれば、その一系譜に入る人として、良寛をとらえられるのではないか。そんな視点を、吉本さんは提示した。なるほど、と私はうなずかざるを得なかった。
良寛は、「日本人の原型である」(唐木順三)とか、「日本的」という言葉を冠して、位置を定めようという傾向がある。それを、更に、視野を広げて、「アジア」という視点まで吉本さんは高めた。
古来、中国では、「隠者」とか、「逸民」という言葉で呼ばれた思想家達につながる人としての良寛。これは、良寛に、世界的な位置づけをした画期的な知見であると思う。
*吉本隆明『良寛』文藝春秋(1992年2月刊)