お知らせ
椿
『良寛』という名     米子市 大原啓道
2024/07/02
活動レポート

良寛という名の由来をごそんじだろうか? 私は、そんな事など、考えた事が無かった。だから、ある文章を読んだ時、かえってこころを動かされた。

それは、『騰々天真』という著作(注)を、読んでいるときだった。かなり前に、出版された本である。良寛の書をめぐる事を中心にして、彼の生涯も自然と浮かんでくるという構成がしてある。

 

若き日、良寛は、円通寺の大忍・国仙和尚に故郷の出雲崎で出逢った。その邂逅によって、和尚の得度を受けた。そして、師に従って、玉島円通寺に赴き、十二年間、師の下で修行をした。

この国仙和尚からもらったのが、「大愚・良寛」という名であった。

 

円通寺の第一世は、「徳翁・良高」、第二世は、「雄禅・良英」、第三世は、「蔵山・良械」という。だから、そこから、「良」の字をもらった。

また、「大忍・国仙」からは、大の字をもらい、「大愚・良寛」とした。この本の著者、加藤憘一氏はそう考えられている。。

 

私は、その文を読んだとき、なるほどと、納得する思いを持った。

代々の円通寺の和尚の跡を、継いで行くだけの、力量のある僧侶としての資質を、若き良寛は備えていると、国仙和尚は良寛に見ていた、とも加藤氏は述べている。「愚」は、「大智識」ともいえまいか、と私は、思っている。

 

その師の期待に違わず、良寛が日々修行に励み、仏道に精進していた事は周知のところである。しかし、良寛は、師の後継の道は歩まなかった。国仙の死と共に、円通寺を去り、独り僧の孤立した道を歩む事になった。これもまた、よく知られたことである。

彼が生涯追求していった仏道や、書、また、漢詩や和歌の作品は、現在でも人々の心をとらえてやまない。私達が、それらによって、恩恵を受けている事もまた、今日の厳然とした事実である。

 

やはり、国仙和尚の慧眼は鋭く、命名した「大愚・良寛」は、正しかったといえようか。

 

注:加藤憘一 他『騰々天真 ~良寛の書とこころ~』新潟日報事業所・平成六年九月刊

 

(2024年11月3日)