良寛の『草堂集貫華』を、一気に読んだ。読んだといっても、それは内山友也氏が、良寛の漢詩を訳し、評釈したものである。私は、その訳された部分だけを読んだ。所々は、その漢詩の意味を解説、説明してあるところも読んだ。(内山友也 著・春秋社 刊・1994年)
読み終えた感想を、一言でいえば、壮年期の良寛の、ほとばしる思念や情感が表現されている漢詩集といえる。彼の有名な漢詩も、こんな集の中にあったのかと思ったりもした。
例えば、若き日の玉島・円通寺での修行を回想した漢詩。
円通寺 (意訳 大原)
自来円通寺 円通寺に来たりてより
幾度経冬春 幾度か冬や春を経た
衣垢聊自濯 衣に少し垢が着けば 自分で洗い
食儘出城関 食が無くなれば 寺を出て托鉢もした
門前千家邑 町には千軒の家があるけれど
更不知一人 一人として知る人は無い
會讀高僧伝 高僧の伝記を読めば
曾可可清貧 僧は清貧を第一と教えている (31頁)
この詩の他にも、数々の有名な漢詩も有る。この集に載っているのは、良寛の五合庵での生活から生まれた漢詩であるが、それらに響いている良寛の心音は、読んで味わうしか無い。
読み終わると、良寛が感受性の実に豊かな人だった事をあらためて思った。民衆を詠い、自然を詠い、歴史を顧みる眼力は、並大抵のものではない。
仏教の流れさえ、歴史的に捉え、批評しながら述べている詩などを見ると、今の私では到底およばない。しかも、これほどの漢詩を、日々、書き連ねて行くその心の熱にも、感銘せざるをえない。道は遠く、遥かである。
(2024年1月26日)