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椿
良寛の新しさ     米子市 大原啓道
2025/01/03
活動レポート

この数年、良寛さんのことを、断想的に書いて来ている。彼の諸々の作品を読んだり、彼について書かれた著作を読んだりして、触発された事が中心だ。ただ、「良寛はこれだ」、と、確信出来る事を掴んだ思いは無い。

 

分からない事もたくさんある。その自分のわからなさの弁明として、「良寛の峰は高い』とか、「渓谷は深い」とか述べて、嘆声を発している。従って、わが良寛への理解状況は、足踏み状態、としか言いようがない。

 

そんな気持ちだったとき、吉本隆明氏の『良寛』(1992年 春秋社刊)を読んだ。

 

吉本氏の文章は、何を読んでも、いつも頭がすっきりとする。文章の分析力とか論理性が、それを感じさせる第一の要因だ。やはり、学生時代や大学等で、化学を専攻し、分析とか、マルクスやヘーゲルを読み、理論を、自然、身につけているからであろうと思う。それに、感性が加わっているから、他に見ない説得力があるのだろう。今回の『良寛』もそんな読後感だった。

 

一つだけ云えば、「良寛のわからなさを、良寛の新しさ」と捉えている点だ。良寛の漢詩や短歌について論じた文章の中にあった。吉本氏は、こんな風にいう。

 

〈詩はいつも失敗をもとに現れるともいえます。ただ失敗の詩を不思議とも唐突ともおもわない感性の時代は、良寛のあとにやってきました。むしろ良寛にとって詩は不本意の果にあらわれました。また良寛の生涯にとって失敗は最後にあったものです。どうかんがえても、良寛が意志したものに反してでてきたそのものの新しさ、難解さが、たぶん良寛の本質的な問題ではないかと、私にはおもわれます。〉(『良寛』51頁)

 

難しい表現ではあるが、このたび、わが心が、説得された箇所でもある。