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玉のつゆ ~若き日の出逢い~(七) 米子市 大原啓道
2025/12/14
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良寛さまは、代々続いてきた由緒あるお家にお生まれになった。それはよく存じ上げていた。そんな家柄の子弟に生まれると、幼少期から、将来の為に、学びをせねばならない。良寛さまは、大森子陽先生の漢学塾、三峯館に通い、「四書五経」などを、そらんじるまでに学び、身につけようとされた。

 そんな大庄屋、しかも、神官までも、務められてきた家系だった。長子に生まれた方の宿命は、重かった。そんな方の中には、長じて、やはり、身を立てられるには、漢学塾の先生になられる方も多かった。

 先人の知恵を学べば、自ずと人生の万象にも、心が向けられてゆく。まさに、良寛さまの少年期は、そのような務めを日々なされていたようだ。やがて、成人となり、文孝と名乗られた。

 新津の桂家の当主、桂栄誉様の集められていた「万巻楼」などの書物をも、当時、読破されてもいたらしい。この方は、一度は、橘家山本家に養子となられたが、何らかの事情で、新津家に呼び戻された方のようである。

 冬の空堂に一人、ろうそくの光を、ただ一つの頼りに、読書をされた文孝様。どういう経緯や、つながりによって、そのような事が可能であったかは、存じ上げない。

 また、当時、紫雲寺の観音院にもお通いになり、そこの宗龍禅師のもとで、座弾も学びになったという。この禅師様のおかげで、円通寺の国仙和尚様との縁も生まれ、やがて得度を受けられ、出家なされた良寛さまであった。

 国仙和尚様は、備中玉島のお方だ。宗龍禅師様も、昔、そこのお寺で修行をなされたことがあったようだ。その縁で、仏事のため、わざわざ、この遠い越後の国までおいでになった。その機縁があって、良寛さまは初めて、国仙様にもお会いできたのだった。

 今から振り返れば、運命としか、いいようのない出逢いが、若き日の良寛さまには、あったのである。不思議なことながら、人と人との縁の糸が、つながっていたのだった。国仙和尚様は、一目で、良寛さまを見抜かれ、得度を与えられて、そのまま、良寛さまを、円通寺に連れてお帰りになった。

 何という出会いであったかと、想像すればするほど、仏様のお力は、ありがたいものだと思わざるを得ない。私が、良寛さまにお会いできたのも、やはり、仏様のおかげである。この御縁を大切にして、生きてゆかなければならない。