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玉のつゆ ~修行の日々~(八)     米子市 大原啓道
2025/12/14
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「円通寺に参じてからは、本当に、厳しい修行の日々でござった」。良寛さまが、おっしゃった。その時は、しみじみと、昔を懐かしむお顔をなされていた。

 それぞれの宗門には、修行のための規律がある。曹洞宗の寺の規律も厳しいものであった。それは、よく耳にすることである。総本山永平寺での雲水の修行の厳しさなど、よく知られている。

 この宗門を、お開きになった道元様が、お決めになったことを、何百年も、一つ違わず、守り続けていられた。「只管打坐」の一語に、それは込められていた。ただ、座る。作法に従い、朝起きてから、夜、就寝するまでの、全ての起居や動作が決められていた。

 円通寺では、朝三時に、打ち鳴らされる板鈴の響きによる起床とともに、読経、食事、作務、掃除など、すべてが、その規律に則って行なわれた。無論、時には、国仙和尚様の講話や、修行僧達自らが、師に、問いを発する時間もあった。

 良寛さまは、いつも、先頭をきって、それらの物事に取り組まれていた。そして、時には、托鉢の修行もあった。玉島の町に出かけていって、家々を巡り、御経を唱え、お布施や、時折りは、お米の提供も、してもらったのだそうだ。

 長年修行を続けてきているような僧侶の中には、町中に、顔を見知った人もあり、そういう家を、優先して巡ってゆく僧もあった。しかし、新参の良寛さまには、そういう家はなく、ただ、ひたすら、一軒、一軒と巡って行かれていた。

 当時、玉島は湊町であった。北前船が入港すれば、船人や商人でにぎわい、ひときわ町が華やいでもいた。港近くには、遊郭もあった。男衆は、旅の疲れや、懐が豊かになれば、当然そういう場所へ出かけて、一夜の歓楽に浸ってもいた。庶民は、庶民の日々を送るのである。

 そういう巷の歓楽をよそに、良寛さまはひたすら、修行に励まれていた。仏の道を求める気持ちは、それほど強固なものであった。金のように、価値で、はかれるものではないけれど、衆生とは違った世界を、ひたすら追っておられた。それは、出雲崎を去るときに固められていた、決意のもたらすものであった。

 国仙和尚様の教えをひたすら守り、仏道修行の道を歩む以外、目指されていたものはなかった。一歩、また一歩と、歩まれていた若き日の良寛さまであった。

 良寛さまは、禅師様の薫陶を受けられ、それをひたすら守りながらも、自分なりの探究心も、持たれていた。

 時には、庫裡にあった諸々の文書をも、師の許可を得て、読まれたりもされた。古来の名僧の歩みや、生涯などから、たくさんの学びも身につけられたようだ。

 それらすべてを、受け入れて下さった師、国仙様のご恩を考えると、涙が、必ずあふれてくるとおっしゃった。よほど素晴らしい和尚様であったのだろう。

 良寛様は、円通寺で十年の修行の後、和尚様から「喝」をいただかれた。それは、僧侶として、十分な修行を積んだ証であり、一寺の主となる程の資格である。それとともに、一本の藤の杖も与えられた。

 出雲崎での、ただ一度の出逢いによって、一目で良寛さまをお見抜きになり、円通寺に同道され、修行に励んだ十年。慧眼に間違いは無かったと、和尚様も思われていたことだろう。それによって、円通寺内にある、覚樹庵に、住まわれることをお許しになった。兄弟子に当たる、仙桂様につぐものであった。

 国仙和尚様が生きていられたならば、良寛様も、ずっと、そのまま円通寺に永住の道をたどられたことだろう。

 しかし、人の運命の行方ほど、悲しい、はかないものはない。和尚様に、入寂の日がやってきた。良寛さまが大号泣なされたのは、母、おのぶさまの悲報を、文でお知りになった時と、和尚様がお隠れになった二度だという。

 そして、その和尚様の死を境にして、良寛さまの運命も、がらりと変わっていったのである。良寛さまに円通寺を去る日がやってきた。どこかの寺の住職として赴任されるわけではない。それなら、普通の事であった。その道を良寛さまは選ばれなかった。

 良寛様が選ばれた道。それは、ただの一雲水となる茨の道であった。なぜ、そんなことになったのか、詳しくはお話にならなかった。

 ただ、国仙和尚様の後にやってこられた玄透即中和尚様のお寺の運営は、前の禅師様とは、全くと言っていいほど違っていたのだ、とはおっしゃった。良寛様には、ついて行けないものだったにちがいない。

 後に、この即中様は、本山永平寺の管主にまで、上りつめられた方だけに、管理的な事に、長けておられたのであろう。良寛さまの生き方とは、正反対の人格の方ではなかったろうか。良寛さまは一人旅立たれた。一体どこへゆかれたのであろう。それは、良寛さまの生涯の中で謎の多い数年である。